「自分基準」と「寛容型コミュニケーション」について思うこと。

「日本人は議論ができない」とよく耳にします。


「和を以て貴しとなす」

「以心伝心」

「言わなくても空気読むのがあたりまえ」

「忖度」

これが日本の社会の在り方であるように見えます。


意見を言えば、「へんなやつ」「和を乱すやつ」

意見を言われれば、「自分を否定された」ような気分になったりするし、

空気読んで何かを我慢した分だけ、

「どうしてわかってもらえないんだろう」

「自分はこんなにがまんしてるのに、ずるい!!」

「なんで気づいてくれないの」

と、おそらく、心の中で思っていたりもする。


①自分基準について。

学校を卒業する、というところになって、

「レールを外れたら、どう生きていっていいかわからなくなった」

と話す人が私の周りにはたくさんいました。

「この進路を選びます、親がその方が安定してるって言うから。」

と言う生徒もたくさんいました。

「本当はこっちがいいけど、みんながこっちがいいって言うから。」


調和を重んじる文化は、

人の心を推し量ることは、とても素敵ではあるけれど、

行き過ぎると、「自分」が見えなくなります。

他人を気にしすぎてしまうと、

「自分はどうしたいのか」が見つけにくくなることもあります。


わたしの考える「自己基準」は、

「自己決定力」と言い換えることもできます。


物事を「自分で決めて」生きていく、ということです。


誰かの見方と、違っても。

それでも、

「自分はこう考える」「自分はこれで、生きていく」

いろんな人の考え方や意見を受け止めたうえで、

「振り回される」のではなく、「参考にしながら」、

自分の生き方は自分で決めていく力があれば。

もし、人生でなにか壁にぶち当たっても、

誰かのせいにしないで、自分で乗り越えていく力に繋がるとわたしは考えているのです。


②寛容型コミュニケーションについて。

どんなに忖度したって、どんなに空気を読んだって。

それぞれ別の人間なのだから、わかりあえなくて当たり前、

意見は違って当たり前、というのが、

今のわたしの考え方です。


「空気を読んだ」として、

あくまで読んでいるのはその場の雰囲気であって、

本当にその人が何を考えているのかは、その人に聞いてみないとわからない。

もちろん、自分が何を考えているのかだって、相手に伝えないとわからない。


人と意見が違ったからといって、その、他の誰かを、

自分と違うからという理由で否定するのではなくて。


自分の意見を押し殺すのでもなくて。


自分の考えも、伝える。

相手の考えも、うけとめる。


それぞれの考えも、違いがあることも許容したうえで、


「じゃあ、何ができるだろう」と一緒に考えていくこと。


それが、私の考える「寛容型コミュニケーション」です。


もしそれができたら、

いったいどんなに素敵なものがうみだせるだろう。


・やってきたから、わかること。

自己紹介欄にも書いたのですが、私自身いわゆる「繊細さん」で、

例えば友達が失恋したという話を聞いて、友達より先に号泣してものすごく引かれる、

そんな子どもでした(今もですが)。

無意識のうちに、必要以上に「空気を読んでしまう」ということが、

幼い頃からたくさんありました。


自分の気持ちも考えも「言えない」し、

なにかを察してしまって、諦めて「言わない」ことも、

それでも言ってしまって「変だって思われていたらどうしよう……」

と悩んだこともたくさんありました。


自分の気持ちがわからない……も、

どうしてわかってくれないの!も、

散々やってきて、今に至ります。


だからこそ、

自分の考えを大事にすることの必要性も、

我慢も、押し付けもしないコミュニケーションの大切さも、

そのために必要な「ことば」の重みも、

実感としてとてもよくわかるのです。


おもいきり自由な発言をすること、

相手の自由な発言を受け入れることで、

ひとりひとりの世界の広がりと創造力はもちろんのこと、

みんな違うからこそ、着実に、相手に伝える力を育成したいと考えています。




おうちじゅくウーレイカ‼

ひとりひとりの「気づき」を大切にするまなびばです。

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