なぜ「ことば」が大切だと考えるのか。

①きみに、世界は何色にみえる?


たとえば同じ空をみたとして、その空がどんな色にみえるかはひとによって違う。


ひとによって世界の見え方は、変わる、

というのがわたしのものの見方です。

わたしはカレーライスがすきだけど、あなたはきらい。

あなたはピーマンがすきだけど、わたしはきらい。

わたしはこの空を見て、なんだかうれしくなるけれど、

あなたはどうやら、かなしいみたい。


感じ方も、見え方も、ひとによってちがう。

だから、わかりあうことはむずかしい。


だけど、


違うからこそ、誰かと、ものの見方を共有できたとき、

自分の世界が大きく広がっていくと、私は考えるのです。


自分にみえている世界がどんなものなのかを相手に伝えるために、

わたしたちは「ことば」をつかいます。


自分の見方を押し付けるのでも、相手のために自分を抑え込むのでもない。

「わたしにはこう見えるんだよ、あなたには、こう見えるんだね!」


ただ、そのことに、お互いに気づき合えたとき、

きっと、目の前が大きく開けるのだと思うのです。


そのためのツールが、「ことば」です。




②自分のこころをつかまえるには?


「人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように、

 明瞭に偽りなく、盤上の数字を指し得るものだろうか」

(夏目漱石『こころ』より引用)

このフレーズを、私なりに言い換えると、

「こころって、はっきりと、

 ひとの様子やことばやふるまいにあらわれるのかなあ?」


夏目漱石も、「ひとのこころってわかんないよね」

と言っている(かなり乱暴にまとめております……)。


そもそも、自分のこころのことも、人はなかなかつかまえることができないように思います。

「なんかモヤモヤする」の、「モヤモヤ」って、なんだろう?

「かなしい」?「せつない」?「くるしい」?「納得できない」?「ゆるせない」?

「やばかった」「すごかった」というけれど、それは、

「感動した」の?「驚いた」の?「素晴らしかった」の?それとも、別の何か?


自分の今の気持ちを、考えを、適切にあらわしてくれることばは、なんだろう?

それを知るために、そして、ひとに伝えるために、

「ことば」が大切だとわたしは考えます。


自分がどうやって世界をみているのかを、自分が認識することは、実は結構難しい。

ひとのこころや、ひとの世界は、もっと、見えにくい。


だから、「自分のなかのことば」=語彙を、たくさんたくさん、持ってほしいのです。

わたしたちが、

考えるときにつかうのも、誰かに考えを伝えることのできる手段も「ことば」だからです。


(自分の気持ちに「なまえをつけてあげる」ことで、自分もスッと軽くなったり、

相手に自分の思いを伝えやすくなったりすることって、あると思うのです。

「ただただムカつくと思っていたけれど、ぼくは、きみと、一緒に遊びたかったんだな」

そういうことって、実はよくある気がします。)




③自分の答えはどこにある?


高校の教員としてたくさんの生徒を見てきて実感したのが、

「答えを待つ子が多い」

というものでした。

「待っていれば誰かが答えを言ってくれる」

このスタンスを打破するための方策を私は常に考えてきました。


「間違っていてもいい、あなたはこの問いに対してどう考えるのか。

 短くてもいい、一言でもいい、なんでもいいからとにかく、

 あなたの答えを外に出してね!!」


教員生活の13年間、国語の授業を通して、あるいはいろいろな場面での対話を通して、

常にこのスタンスを貫いてきました。


「あなたは、どうしたい?

 あなたは、どう考える?」


テストでも受験でも、受験の形態がどんなものでも、

自分のことばで解答をまとめあげる経験をした者は、強いです。

なぜそのような解答にしたのか、なにが、どこが根拠となるのか。

これからはどの教科においても、「記述力」が問われます。

しっかりと読み、書き、話す力を身に着けること、語彙を増やすことが大事です。

(実際、とある理系大学の関係者から、「実験は成功しても、それに関するレポートが書けなくて単位取得ができない学生が多くて困っている」と言われたこともあります)


はじめは、うまくできなくても、いいのです。


自分の頭で考え、自分の「ことば」で文章を練り上げ、外に出す練習を積み重ねた分だけ

応用もできるようになっていきます。


「正しい答え」のない問いにいつかぶち当たった時にも、

きっとこの経験が役に立つ時がくると思うのです。

おうちじゅくウーレイカ‼

ひとりひとりの「気づき」を大切にするまなびばです。

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